誰も知らない

特に意味のないことをつらつらと書くブログです。

何者

朝井リョウさんの「何者」を読んで、自分の心の底に溜まったドロドロしたものが舞い上がってしまった。

就活状況含めて自分と拓人があまりに似ていて、ぞっとした。

拓人と似ているだけではなく、自分の周りにも光太郎がいて、瑞月がいて、理香も隆良もギンジもいた。

結局、なんだかんだ折り合いを社会人になったのだけれど、やっぱり自分は観察者で、いつか何者かになれると時々考えてしまうことがある。

かっこ悪くて、頭が悪くて、何も持ってないことなんてわかっていても、観察者でいることが楽だから。

そんな自分が大嫌いで、一歩踏み出したのに、また気づけば観察者になってしまいそうな自分がいたけれど、これではだめなんだよな。

また、最後の拓人のように、一歩踏み出した時の気持ちを思い出さねば…




あと、最後にギンジのことを。

きっと、学生時代なら、読み終わった後も、ギンジに対して好意的な気持ちにはなれなかったと思う。

でも最近、自分にとってのギンジたちが、しっかりやりたいことを成し遂げいることを知って、やっぱり何者かになるには、こうでなきゃいけないな、と素直に思えた。

自分もいつかは同じ側にいきたい。


ぶかぶかのPコート

どちらかというと物持ちの良い方だから、気に入った服はかなり長い間お世話になる。

しかし、そのせいでデートの際にいつも同じ服ばかりだと責めらるなどの弊害も生まれてしまっているのだが…


お気に入りの一着を挙げるとするならば、高校時代に買ったPコート。

アルバイトもしておらず、お小遣いの中でやりくりしない状況で、かなり無理をして買った記憶がある。

当時、自分の通っていた高校は、自由な校風で服装も何を着ても文句を言われないようなところだった。

入学当初、先輩が真っ赤なシャツにジーパンで校内を闊歩している姿を見て度肝を抜かれた。

そんな学校だったので、イケてる人からイケていない人まで、かなりお洒落な格好をしていた。

あまり服に興味がなかった自分も周りに感化され、古着屋にいくようになる。

高校生活にも慣れてきた1年目の冬に、いつものように古着屋を巡っていた時に見つけたのが、件のPコート。

真っ黒で丈が長く、ボタンがプラスチックではなく、シンプルな鉄のボタンだった。裏地もお洒落で一目惚れしてしまった。

確か、値段は5万円程度だった(もっと高かったかも)。

アルバイトもしていない自由なには絶対に買えないものだったにも関わらず、なぜかそのコートが欲しくて堪らまくなってしまった。

服屋の店員さんと話すのが苦手にもかかわらず、両腕にがっつり入れ墨の入ったモヒカンのお兄さんに自ら声をかけ、人生最初の、そしておそらく最後の値下げ交渉を行った。

このコートがとても気に入ったが、高校生である自分にはとても買える値段ではなく、3万円で売って欲しいと伝えた。

ぶかぶかの学ランを着たヒョロヒョロの高校生にいきなりそんなことを言われたのだから心底びっくりしていたが、このコートは5万円でも安いくらいで、値下げはできないとのことであった。

しかし、完全にスイッチの入った自分は、どうしてもこのコートを着なければならないと理由になっていない理由を熱弁した。

おそらく1時間はこのやりとりを続け、根負けしたのか3万5000円で売ってくれることになった。

手持ちは3万円しかなかったが、この難交渉に付き合わされた友人に5000円を借りて、なんとか手に入れたのだった…

ちなみにこのコートは一点物で、自分の交渉中に定価で買いたいというお客さんが来たのだが、今はこの高校生と交渉中だからということで売らなかったモヒカンのお兄さんはいい人だったな。

こうして苦労して手に入れたはいいが、まだ高校生になったばかりの自分にはサイズが大きすぎ、かなりおかしな見た目になっていたと思う。

しかし、歳をとるにつれ身体がコートをサイズに追いつき、結局社会人1年目の冬までお世話になった。

さすがに穴が開いてしまったので着れなくなってしまったが、こんなに愛着のわいた服に出会うことはないんだろうな。

今はダッフルコートを着て2年になるのだが、どこか身体に馴染んでいない気がして、着るたびにあのPコートを思い出して、少し寂しくなる。


今週のお題「お気に入りの一着」

おっさんはつらいよ

昨日、仕事で荒んだ心を癒すべく入ったラーメン屋さんで、女子高生が何やら真剣に議論していた。

盗み聞きする気なんてなかったが、大きな声で話しているため嫌でも聞こえてきてしまった。

話の議題は「嫌なお客さん」。

ハンバーガー屋さんで働いているらしい彼女たちは、常連のお客さんたちに点数をつけていた。印象ではなく点数というところがまたシビア…

常連のお客さんの中でも特に低い点数を叩き出していた人は、30代のおじさんで、いつも同じ時間帯に表れ、ポテトだけを買って長居をするらしい。

特に問題ないように思えるが、彼女たちにとってはこの行為が問題ではなく、冴えないおじさんであることが低評価の原因であることが、順番に繰り広げられる彼女たちの人物評からわかってきた。

冴えないおじさんであるということがここまで彼女たちを熱く語らせる原因となっていることに、もうおじさんに片足を突っ込んでいる身としてはなんとも居た堪れない気持ちになった。

確かに女子高生からすれば、おじさんというだけで嫌なんだろうな…笑


そんな彼女たちがその赤点おじさんへのささやかな抵抗として、「またお越しください」とその人だけに絶対に言わないと固く誓っているというくだりは、思わず吹き出しそうになってしまった。

ときのながれはとてもはやい

今年を振り返ると、精神的に非常に追い込まれた一年でした。

他人との距離感、仕事への取り組み方、自分の将来の選択肢など、理想と現実を埋めることができず、ただただ苦しかった気がする…

本気で転職を考える出来事もあるほど仕事のストレスも凄まじく、持ち堪えられるギリギリでした…

しかし、それでも楽しかったことや印象に残ることも色々と経験できた一年でもありました。

中でも一番の出来事は、やはりプロポーズ。

まだまだ課題は山積しているけれど、ずっと一人で生きていくしかないと思っていた自分が結婚できるとは…5年前の自分が知っても信じられないだろうな。

来年の大きな目標は、「色々考える」こと。

忙しく、日々に忙殺されてあっという間に時間が過ぎてしまうからこそ、意識的に目を背けず、自分の頭で考えて行動したい。

おそらく自分の人生において、ターニングポイントになる一年になりそうな予感がするので、真剣に生きていきたい。

それでは良いお年を!!!







当時も今も

今日、『子供はわかってあげない』という漫画を読んだ。

ストーリーも面白く、登場人物もいいキャラをしている(ぜひ朔田さんと付き合いたい!)。


ただ、面白かったけど、同時にダメージを受けている自分もいた…そして思った以上にダメージが大きかった…

ダメージの原因は自分はもう戻れないことを再確認させられるから。

これは今回に限った話ではなく、最近はいつもこうなる。

自分の高校時代がそれらの主人公みたいにキラキラしていたわけでは勿論ないんですよ。

でも、あの頃は真剣に考えて、精一杯生きるって感じがした。
当時はなんとも思っていなかった色々なことが特別だったんだと、今になって感じる。

大学生活も面白かったけど、種類が違う。
大学生活の面白さは社会人生活の面白さとも似通っている。けど、高校生活と同じ気持ちにはもうなれない。

今もこれだけ高校時代が懐かしいのは、自分だけなのだろうか…

世の中の人はこのモヤモヤを抱いて生きているのならば、すごく羨ましいな。



二十歳の原点

今週のお題「人生に影響を与えた一冊」

この本に出会っていなかったら…という本は何冊かある。

伊坂幸太郎の「チルドレン」に出会っていなかったら、読書をする習慣なんて身につかなかった。

村上春樹作品に出会っていなかったらで本を読むだけで、何かを書きたいと切実に思うことなく生きていた。

様々な本を読んで良い影響、悪い影響をうけているわけだが、「人生に影響を与えた」本となると、高野悦子さんの「二十歳の原点」かな。

この本は、大学一年の冬に、仲の良い友人から誕生日プレゼントとしてもらった。

だがしかし、もらってから1年近く読むことはなかった。

当時、村上春樹作品に、どっぷりはまっていたこともあるし、表紙の高野悦子さんの写真が可愛くなかったことも影響しているのかもしれない…

もらってから1年後、ふと思い出し読んでみて、衝撃を受けた。

うまく説明できないので、詳しくは書かない(ぜひ読んで、直接感じてほしい!)。

簡単に言うと人生と真剣に向き合い、最終的に命を絶った自分と同い年の少女による真っ直ぐな告白に打ちのめされたのだ。

この本と出会うことによって、自分の人生について、あれこれと思いを巡らせるようになった。

きっとこの本を読まなかった方が、生きやすい人生を歩めた気がするが、それでも大学2年生という人生において最も自由で、ある意味では最も不自由な時期に読むことができてよかった。

おそらくこの本は、人生において心に刺さる年齢が非常に限定的だ。

若すぎては彼女の苦悩を共有することはできないし、彼女の年齢を越えてしまっては彼女の苦悩は生きていく上で煩わしいものでしかない。

きっと自分も社会人になってから読んでいたとしても、何も感じなかった気がする。

ぜひ、大学1,2年生に読んでもらいたい、そんな本。

本音と喫茶店と大人の世界

喫茶店では、いろんな本音が聞こえてきてしまう。

周りに知り合いがいない安心感からか、みんな大きな声で話している。

当人は一緒に来ている人間に向かって話しているのだけれど、居酒屋ほどうるさくないため、どうしても周りの人間にもその内容が聞こえてしまう。

私のように休日の大半を喫茶店で過ごす人間は、聞く気がなくても、色んな人の考えを垣間見ることになる。

これはあくまで個人的な感想だけれども、喫茶店で話される内容は、建前の綺麗事ではなく、本音が多いような気がする。

彼氏のセンスが悪さが気に入らなくて別れたいという女性や、バイト先の留学生が話す片言の日本語を馬鹿にする大学生など、正直に言って聞こえてきて気持ちの良いものではない話題を、みんな熱心に話している。

でもみんな、普段はそんな気持ちを隠している。

彼女は別れたいとは言いながらも、そんなセンスの悪い彼氏と花火を観に行くために浴衣を買わなければいけないし、大学生もその留学生の前で、あまり流暢ではない日本語を脚色したモノマネをして、友達を笑わせたりはしないだろう。

昔はそういう話を聞くことがどんなことよりも嫌いで、自分のことでなくても塞ぎ込んだりしていた。
しかし、最近はそこまでは影響を受けることはない。

それは、程度の差こそあれ、誰でもそういうものだと納得する方法が身についたから。


みんな他人が見せない本音を抱えているとわかりながらも、普段はそれを忘れることにしている。

そういう技術を身につけることは、ある意味大人になるための通過儀礼なのかもしれない。

別に本音が綺麗じゃないことが嫌なわけではない。
ただ、そんな気持ちを隠してニコニコしていることが義務になっている大人の世界は、たまらなく生きづらい。